1999年の就職氷河期。就職活動の主戦場とされていた4月から6月も終わろうとしていた頃、私の心には焦りが募るばかりでした。内定が取れないまま、6月が終わる――これは当時の学生にとって“致命的”とも言える状況でした。
周囲では既に内定を獲得している学生も多く、「自分だけ取り残されていく」という焦燥感が毎日重くのしかかっていました。そんな中、私が取った行動は「システムエンジニア職なら、もうどこでも応募する」という開き直りに近いものでした。
聞いたことのない企業に次々応募
それまで私は、自分なりに「やりたいこと」や「将来性」を見据えて企業選びをしていました。しかし、それでは一向に結果が出ず、ついに方針を転換。もはや企業の規模も、知名度も、職種の詳細も二の次。「受かるかどうか」が最優先の選考軸となっていきました。
たとえば「アークシステム」という中小のIT企業。説明会では「OSに関連するミドルウェアの開発」という非常にマニアックな業務内容が語られ、正直、内容はほとんど理解できませんでした。
しかし私は「はい、できます!やれます!」と、前向きなふりをしてその場を乗り切ろうとしました。結果的には、企業側も私自身も「これは違う」と感じたようで、双方合意のうえで辞退という形になりました。今思えば当然の結果ですが、当時は「どこかに引っかかれば…」という藁にもすがる思いでした。
地道な面接練習が少しずつ実を結ぶ
その後も、「新日本システムサービス」や「アグレックス」など、聞き慣れない中堅・中小企業の説明会にひたすら足を運びました。日々、説明会と面接を繰り返し、人事との対話の中で、ようやく「就活で何を聞かれ、どう答えるべきか」という型のようなものが身についてきました。
やがて一次面接、二次面接と突破できる企業も出てくるようになり、「これはもしかしたら…」というわずかな希望も芽生えてきました。
そして、ついにある企業で「最終面接」への案内が届いたのです。
衝撃の告白:「今年の採用はやめます」
最終面接当日、私は会場に向かいました。そこには私を含め、選考を勝ち残ってきた3名の学生が集まっていました。それぞれが緊張感を抱えながら、自分の番を待っていたそのとき――信じられない一言が人事担当から告げられました。
「申し訳ありませんが、今年の採用は見送ることになりました」
最終面接の直前、つまりこのタイミングで、「採用ゼロ」と言い渡されたのです。
その瞬間、時間が止まったような気がしました。
驚きと動揺、そして怒りにも似た感情が胸の中を渦巻いていました。
心が折れた瞬間
「まじか」「まじかよ……」と何度も心の中で繰り返しました。
せっかくここまで進んできたのに、突然の「採用なし」。これは、単なる不合格とは違います。努力の末に辿り着いた最終面接で、「そもそも採用枠自体が無くなりました」と告げられるのです。
まるで、ボクシングでボディに連打を受けて、最後にアッパーカットを食らって意識を刈り取られるような、そんな衝撃でした。
熱が出そうなくらいのショックで、もはや何も考えられず、何も覚えていない――そんな状態でした。いっそその場で倒れてしまいたい気分でした。
駅までの帰り道、共に歩いた“戦友”たち
その場にいた3人で、何とも言えない沈黙の空気の中、一緒に最寄駅まで歩いて帰りました。互いに「お疲れ様」「武運を祈るよ」と励まし合いながらも、全員の心には、深い失望と空虚感が漂っていたはずです。
どんなに頑張っても報われないことがある。
どんなに希望を抱いても、最後の最後でひっくり返されることがある。
就職活動という“戦場”の厳しさを、あの日ほど思い知ったことはありません。
「採用しないなら募集しないでほしい」という叫び
もちろん企業側にも事情があったのでしょう。景気が急激に冷え込む中で、採用計画が変わることもあるのは理解できます。
それでも、「最終面接の日に、採用中止を告げる」という対応には、やはり無力感を覚えずにはいられませんでした。
企業からの「心に刺さる一撃」。それはただの落選よりも深く、長く、痛みを伴うものでした。
終わりに:それでも、歩き続けるしかなかった
就職氷河期は、まさに“理不尽との戦い”でした。
正しいことをしても報われず、誠実に向き合っても結果が出ない。そんな時代を生き抜く中で、私たちは悔しさも、怒りも、諦めも味わってきました。
それでも、あの日、一緒に駅まで歩いた“同志たち”のように、前を向いて歩くしかなかったのです。
あの経験があったからこそ、今の困難にも耐えられる自分がいる。そう信じて、今日もまた一歩ずつ進んでいます。
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