1999年、就職氷河期の渦中。私は就職活動の終盤戦、いや、“崖っぷち”に立たされていました。
6月が終わり、最終面接で「今年の採用はありません」と突きつけられたあの日から、就職活動はますます混迷を極めていきました。最終面接の会場で採用ゼロを言い渡された衝撃の直後、私はある種“パンチドランカー”のような状態になり、応募する企業の選別すらできなくなっていったのです。
7月、もう後がない――中小企業頼みの終盤戦
7月に入ると、就職市場の空気は一変します。大手企業の採用活動は軒並み終了し、残された学生にとっては、もはや“拾ってもらえるかどうか”の段階。中小企業や零細企業が、余った学生を取るかどうか、それこそ経営者の気まぐれで左右される――そんな時期でした。
それでも「就職フェア」と名のつくイベントは、まだ細々と開催されていました。しかしその実態は、誰もが名前を聞いたことのないような企業ばかり。水道の修理会社や、数人規模の事務所の事務職、営業、時には“雑用係”のような職種すら混じっており、それでも会場には就活生が黒だかりとなって集まっていたのです。
「これが現実なのか」「そういうものなのか」
初めての就職活動で、もはや何が普通なのかも分からず、私はただ亡霊のように、うだるような真夏の暑さの中を大阪の都心で彷徨っていました。
狭くて暗い、ラピュタの炭鉱のような事務所へ
そんなある日、私はとある企業の面接に向かいました。今でこそ「KITTE」や「グラングリーン大阪」として再開発されたエリアですが、当時はまだ鉄道の車庫や貨物用の施設が広がっていた場所です。
面接先は、その中の小さな企業で、貨物の管理や設備の整備などを手掛ける、社員数わずか3~4人の会社でした。
その事務所は、まるで映画『天空の城ラピュタ』に出てくる炭鉱の親方の仕事場のような場所でした。人ひとりがやっと通れるほどの細くて急な螺旋階段を、何度も上ってようやくたどり着く、狭くて薄暗い空間。事務所と言っても、人が2人入れば身動きが取れなくなるようなサイズで、まさに“現場感”そのもの。
私はスーツを着て、その狭い空間に足を踏み入れました。
煤だらけの作業着、しかし誰よりも誠実な言葉
面接官として現れたのは、ボロボロの作業着を着た中年の男性でした。帽子は元の色が分からないほど汚れており、顔には煤のような汚れがついている。まるで本物の炭鉱員のような出で立ちでした。
しかし、その人の言葉や所作はとても丁寧で、優しさにあふれていました。真剣に話を聞いてくださり、私の履歴書を見ながら、静かにこうおっしゃいました。
「君みたいに、ちゃんと大学を出た人間を、うちでは育ててあげられない。ゴメンな、もっといい仕事を見つけてくれよ。」
たったひと言、でもそこに込められた想いは計り知れませんでした。
初めて感じた“拒絶ではない断り方”
就職活動の中で、私はこれまで何度も落選してきました。面接で冷たくあしらわれたり、形式的に落とされたり、自分の存在を否定されたような感覚すら味わってきました。
でも、このときの「ごめんな」という言葉は、拒絶ではありませんでした。そこには本当に私の将来を思ってくれている温かさと、誠実さがありました。
それまでどれだけ頑張っても空回りして、社会から拒まれ続けてきた私にとって、この一言は深く胸に刺さりました。
「自分は、ここで何をしているんだろう」「どこに向かっているんだろう」
そんな迷走していた気持ちが、少しずつ落ち着いていくのを感じました。
24年経った今でも忘れられない面接官
それから24年が経ちました。社会人として、さまざまな経験を積み、今では新卒時代のことも笑って話せるようになりました。
でも、あの日出会った“炭鉱員のような人”のことは、今でも忘れられません。私が就職活動で出会った中で、間違いなく一番記憶に残る人物であり、心を救ってくれた人です。
面接という短い時間の中で、これほど心に響く言葉をくれた人は他にいませんでした。
終わりに:感謝が新たな一歩を支えてくれた
就職活動は、「誰かに選ばれること」がすべてのように思えてしまいます。でも、選ばれなかったとしても、「人として扱ってもらえること」がどれほど心の支えになるのか、その時に痛感しました。
あの出会いがあったからこそ、私はもう一度前を向くことができました。焦りと不安と絶望の中にいた自分に、再び「やってみよう」と思わせてくれたのは、あの一言でした。
社会のどこかに、あんな人がいる。
それだけで、この世界もまだ捨てたものじゃない――そう思わせてくれる、かけがえのない出会いでした。
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