1999年、私は就職活動の真っ只中にいた。バブル崩壊後の長引く不況により、学生の新卒採用は極端に減少し、企業からの内定獲得は狭き門。いわゆる「就職氷河期」の最前線に、自分が立っていた。
この時期、私は数えきれないほどの会社説明会に足を運んでいた。アグレックスのような中堅のITベンダーから、地元の中小企業まで、説明会オタクのように動き回っていた中で、今でも妙に記憶に残っているのが「帝人株式会社」の説明会だ。
帝人の名前に惹かれて
そもそも、なぜ帝人に応募しようと思ったのか。当時の私は高槻南高校でサッカー部に所属しており、全国大会常連校の一員だった。全国高校サッカー選手権のスポンサーとして「帝人」という名前は、当時の高校生にとって馴染み深い存在だった。
「帝人」という名前もまた独特の響きがあった。どこか重厚で、映画『帝都物語』の加藤保憲のようなキャラクターを想起させる。完全に私の妄想ではあるが、そんな“強そうなイメージ”も志望の動機の一つだった。
中小企業とは違う、大企業の空気感
これまで訪れてきた中堅・中小企業の説明会では、経営者と直接会話する機会もあり、その内容も個性的だった。話の切れ味も鋭く、「ここで何をしてもらえるか」ではなく、「君はここで何ができる?」というスタンスの企業が多かった。
一方、帝人の説明会はまったく別物だった。会場の雰囲気、配布されるパンフレットのデザイン、社員の対応、どれをとっても「ちゃんとしてる」。まるで高級ホテルのような丁寧さと落ち着きがあった。
説明に登壇した人事の方々は、非常に礼儀正しく、学生一人ひとりを丁重に扱っていた。しかし、どこか印象が“ふわっとしていた”のも事実だ。話は整理されていて綺麗なのだが、どうにも頭に残らない。
こちらの質問が悪かったのかもしれない。だが、全体として「大企業の余裕」という空気をまとっていたのは確かだ。
あの頃の帝人は、確かに“いけていた”
今になって当時の帝人の企業状況を振り返ると、あの「余裕」にも裏付けがあったことがわかる。
帝人は1995年から2000年にかけて、売上高を大きく伸ばしていた。
売上高の推移(1995年〜2000年)
• 1995年:7,861億円
• 1996年:7,907億円
• 1997年:7,412億円
• 1998年:8,349億円
• 1999年:8,886億円
• 2000年:8,537億円
1997年には一時的に減少したものの、その後は堅調に回復し、1999年にはバブル崩壊後でも最高水準に達していた。帝人はこの時期、積極的な事業戦略を展開していた。たとえば、アラミド繊維「トワロン」の買収や、帝人商事と日商岩井アパレルの合併による「NI帝人商事」の設立など、グローバル展開と素材事業の強化に力を入れていた。
特に繊維事業では、1999年に売上高3,410億円、営業利益10億円だったものが、2000年には売上高5,150億円、営業利益105億円と大幅に増加しており、まさに勢いがあった時代だった。
つまり、あの説明会で感じた“ふわっとした余裕”は、ただのイメージではなく、実際に業績が好調で、社内にも風通しの良さや自信があった証だったのかもしれない。
神様じゃねえけど、祈られ続けた日々
とはいえ、いくら説明会の印象が良くても、現実は非情だった。書類選考に通らなければ、どんなに志望動機を練っても意味がない。面接に進めることすら稀だった。帝人も例外ではなく、非常に丁寧な“お祈りメール”を送ってくれた。
正直、「俺は神様じゃねえぞ」と突っ込みたくなるくらい、“祈られる”日々が続いた。メールの文面がいかに丁寧でも、その裏にある事実は「あなたは要りません」のひとことだ。
就職活動は、社会を見る旅だった
当時は説明会に行くことが目的になっていた節もある。「面接に進めるかどうか」は二の次で、「どんな企業が、どんな仕事をしているのか」を知ること自体に意味があると自分に言い聞かせていた。
帝人のような大企業に触れることで、自分がこれまで知らなかった世界の広がりを感じられたのは確かだ。そこで働けるかどうかは別にして、「こういう空気の会社があるんだ」と実感できたのは貴重だった。
おわりに
就職氷河期は、確かに厳しい時代だった。しかしその分、たくさんの会社を見て、話を聞いて、社会というものの断片に多く触れることができた。
帝人の説明会で感じたのは、「大企業は、ただデカいだけじゃない」ということ。業績の好調さが企業文化にもにじみ出ていて、そこには中小企業とは違う「余裕」があった。
そして今、改めてあの頃の帝人の業績を見返すと、「ああ、そりゃあの時、話がふわっとしてても自信あったわな」と納得できる。
あの暑い夏、帝人の説明会に足を運んでよかった。祈られたけど、それもまた、いい経験だったと思っている。
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