29歳、ホーチミンへ。オフショア立ち上げで見えた世界と、就職氷河期世代としての選択

就職氷河期

社会人として数年が経ち、仕事に慣れてくると、人は「次の何か」を求めたくなるものです。私も例外ではありませんでした。システムエンジニアとしてERPの導入案件に携わる日々。忙しさとやりがいの中に身を置いていながらも、どこかで「このままで良いのだろうか」「もっと違う景色を見てみたい」という気持ちが芽生えていました。

そんな折、社内で「ベトナム・ホーチミンにおけるオフショア開発ビジネスの立ち上げメンバーを募集する」という話が持ち上がりました。若手エンジニアを現地で採用し、日本で受注したシステム開発案件を、ホーチミンで高品質に仕上げて日本の顧客に納品する、という構想です。日本人の現地駐在は3名。そのうちの1人として、自分に白羽の矢が立つかもしれない。そんな予感を感じつつ、迷いながらも私は立候補しました。

ちょうどその頃、私は29歳。長男が生まれたばかりで、家庭としては非常に大切な時期でもありました。決断には大きな迷いもありましたが、最終的には「このチャンスを逃したら、きっと後悔する」と感じていたのだと思います。もともと私は、何か新しいことに飛び込むのが苦ではない性格。いや、むしろ「好奇心」が勝ってしまうタイプです。周囲から見れば唐突な決断でも、私にとってはごく自然な流れでした。

それに、私は「就職氷河期世代」。あの厳しい時代を乗り越え、ようやく手にした機会を簡単に見送ることはできませんでした。2000年前後、内定率が60%を切るような時代に大学を卒業し、ようやく社会人としてのキャリアを歩み始めた自分にとって、どんな経験も「自分を広げるチャンス」として捉えたいという気持ちが強かったのです。

実際のプロジェクトは、想像以上にチャレンジングなものでした。現地法人の設立準備、オフィス探し、スタッフの採用…。とくに重要だったのは、ベトナム人の若手人材との出会いでした。当時、日本のAOTS(海外産業人材育成協会)などの支援も受けながら、現地の優秀な若者を採用し、新会社のメンバーとして迎え入れていきました。

2006年の夏には、現地の開発パートナーのオフィスを間借りしながら、いよいよ実務がスタート。当初は日本との文化や仕事の進め方の違いに戸惑うことも多く、苦労は絶えませんでした。それでも、ホーチミンの若者たちはとても素直で、柔軟に吸収しようとする意欲に満ちていました。何より年齢も近く、気づけば彼らと一緒に現地の路地裏で晩ご飯を食べたり、週末にはバイクの後ろに乗せてもらい、サッカーの試合に参加したりと、仕事を超えた関係が築かれていったのです。

写真:当時知り合った仲間たちとの再会

あの頃の思い出は、今振り返ってもかけがえのないものです。文化も言葉も違う中で、共に働き、語り、笑った日々。今でも彼らとはFacebookを通じて繋がっていて、仕事などでホーチミンを訪れると、必ずと言っていいほど温かく迎えてくれます。

こうした経験を通じて、私自身も大きく変わっていきました。日本の中だけで育まれた「日本人らしさ」や「常識」が、一度壊され、再構築されていく感覚。異なる文化や価値観の中で自分をどう表現し、どう信頼を築いていくか。そのプロセスは決して簡単ではありませんが、乗り越えた先には、確かに成長がありました。

「海外で暮らす」というのは、想像以上にエネルギーを使うものです。生活習慣、言葉、食事、人間関係…。どれもが「当たり前」ではなくなります。しかし、それだけに得られる気づきや視点の広がりは計り知れません。日本にいた頃には見えなかった「当たり前の外側」に触れることで、自分の思考や行動の幅も大きく変わっていきました。

あの時、悩みながらも一歩を踏み出して本当に良かったと思います。家族の理解や支えがあったからこそ実現できた挑戦でもあり、心から感謝しています。

そして、あの「就職氷河期」という時代を必死で乗り越えた経験が、今なお自分の原動力になっていると実感します。

これからも、あのときの経験を胸に、誰かの可能性を広げるような仕事ができたらと思っています。今回の投稿では、ベトナム赴任のきっかけから現地での体験までを綴りましたが、次回は、そこで得た「価値観の変化」や「アイデンティティの再構築」について、もう少し掘り下げてみたいと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました