いよいよ7月が終わり、8月に突入する頃。当時、私は大学4年生。就職活動の真っただ中でした。
とはいえ、世の中は「就職氷河期」。1993年頃から始まったこの雇用の冬は、2000年前後まで続く長い戦いでした。バブル崩壊後の景気後退、企業の採用抑制、団塊ジュニア世代による受験・就職競争の激化…さまざまな要因が重なり、私たちの世代は「努力しても報われない」ことを早くから知ることになったのです。
7月末といえば、すでに多くの大手企業は採用活動を終えていました。残っていたのは、いわゆる中小企業。今思えば優良企業も多く含まれていたのでしょうが、当時の私たちには「滑り止め」としてしか映らず、どこかで「本命ではない」という気持ちが拭えなかった。
しかも、その中小企業ですら「今年は大手に行けるはずの優秀な学生が余っている」と言われる状態で、「厳選採用」の姿勢。要するに、最後のチャンスに挑もうとしている学生に対して、企業もなかなか手を差し伸べてはくれませんでした。
私自身も、ソフトウェア関連の企業は片っ端から応募して、受けられるだけ受け尽くした後でした。気づけば、もう手元に応募できる会社のリストはほとんど残っていなかったのです。
同期たちの諦めと、心の葛藤
この頃になると、周囲の友人たちも二極化していきます。早々に内定を決めた者と、「もう諦めた」と言い出す者。
「俺、もうフリーターでええねん」
「就職って向いてないと思ってたし」
「来年もう一回やるわ、一浪するだけやから」
「大学院行くことにした」
そんな言葉を、冗談混じりに、でもどこか投げやりに語る仲間たち。でも、私にはわかっていました。顔は笑っていても、心の中では泣いているのだと。あれだけ努力してきたのに、自分の存在を否定されたような感覚。選ばれなかった悔しさ、未来が見えない不安、それを紛らわすための“強がり”が、あちこちに散りばめられていました。
正直、そんな彼らに「もっと頑張れよ」とは言えなかった。自分で決めた道だからこそ、そこに踏み込む資格はない。でも、心の奥では「悔しいって、正直に言おうや」「負けたくないって言って、もう一度だけ踏ん張ろうや」と叫んでいました。
でも、そう思えるのは、私自身がまだ諦めていなかったからなのかもしれません。
諦めるという選択肢がなかった
この期に及んでも、私の心は「IT業界で働く」という目標から一切ブレていませんでした。
なぜか?根拠なんてほとんどなかったけれど、「ITで実力をつければ、3年後、10年後には絶対世の中が変わる。そこでチャンスが巡ってくる」と、漠然とした確信——あるいは妄想のような信念——を持っていました。
それだけに、IT業界以外で妥協するという考えはまったくなかったのです。
辛かったし、心では泣いていたけれど、へこたれなかった。いや、へこたれないフリをしていただけかもしれない。それでも、どこかで「自分は簡単には折れない」と信じていた。そうやって、まだ何者でもなかった自分の“芯”のようなものが、少しずつ見えてきた気がしました。
「自分を安売りするような真似は絶対しない」
若気の至りかもしれません。でも、あの頃の自分はそう決めていたのです。
大学の就職課は「敗者の集い」だった
今となっては笑い話ですが、大学の就職課にも幻滅していました。
あの場所は、私の中では「敗者と事なかれ主義者の溜まり場」になっていました。「がんばってな〜」「まぁ今は厳しいしね〜」という、何の責任もない励ましの言葉。それは慰めにはならず、逆に「ここにいても何も変わらない」と思わせるには十分でした。
一度顔を出してみたものの、それっきり。二度と行くことはありませんでした。
自分が大した人間でないことは十分わかっていましたが、それでも「ああ、追い込まれると人ってこんなにも弱くなるんだな」と他人を通して知ることができたのは、ある意味で貴重な経験でした。
「信じない」というスタンスが生まれた理由
こうした経験の積み重ねで、私の中には一つの価値観が生まれました。
「世の中は信じない。企業も信じない。でも、利用できるなら徹底的に利用する。」
それは冷たい考え方かもしれません。でも、生き残るために必要な防衛本能だったと思います。そして、きっと私だけではなく、あの時代を生きた多くの「就職氷河期世代」が、似たようなスタンスを心の奥に持っているのではないでしょうか。
この価値観は、今も私の中に根を張っています。あの頃を“言い訳”にしている部分もあるかもしれませんが、それでも自分の行動や信念の土台にはなっているのです。
苦しかった。でも、面白かった
苦しくて、しんどくて、何度も心が折れかけた日々。
それでも、今になって思うのは——「得るものも確かにあった」ということ。もちろん、キレイごとでは済まされない。どれだけ悔しい思いをして、どれだけ眠れぬ夜を過ごしたかは、自分が一番よく知っています。
でも、あの経験があったからこそ、社会を見る目が少しだけ鍛えられた。自分自身の限界を知ることもできた。そして、何より「負けたくない」という気持ちが、今の自分を形作っている。
当時の私は未熟でした。でも、未熟なままで味わったあの重圧と衝撃が、私を成長させてくれたことだけは間違いありません。
あの頃の自分に言ってあげたい。
「辛かったけど、お前、ようやったよ」と。
そして、今も同じように苦しんでいる誰かに伝えたい。
「まだ終わってへん。諦めたら、そこで終わりや。」
コメント