【就職氷河期世代のリアル⑫】300社応募・30社面接して見えたもの

就職氷河期

8月、説明会は減り、終盤戦へ

8月に入ると、企業の説明会は激減してきました。

ピークだった春〜初夏とは違い、すでに内定を出し終えた企業も多く、残るは「秋採用」や、追加募集をかける企業ばかり。

「このまま内定が出なかったらどうしよう」――そんな不安が日に日に大きくなっていったのを覚えています。

それでも私は、応募を止めることなく続けていました。

気づけば、エントリーした企業は300社を超え、面接までたどり着いた企業も30社以上。

単純に計算すると、面接に進めた確率は約10%ということになります。

今にして思えば、営業職でよく言われる「テレアポ成功率3%」と比べれば、かなり健闘していたとも言えます。

300社応募、30社面接――数字で振り返る活動記録

300社エントリー、30社面接――。

数字だけ見るととんでもない数に思えますが、当時の私はそれだけ必死だったのです。

ただ、実際に「本当に行きたい」と心から思えた企業は、その中でも3分の1ほど。

つまり、10社前後でした。

もしこれが就職氷河期ではない時代なら、10社も面接を受ければ、どこかしら内定がもらえていたかもしれません。

しかし、あの時代は違いました。

どれだけ努力しても、「ご縁がなかった」という言葉とともに断られることの方が圧倒的に多かったのです。

手書き履歴書と、説明会100社巡りの日々

当時、履歴書の「手書き指定」はごく普通のことでした。

パソコンで履歴書を作成する文化はまだ一般的ではなく、特に中小企業や関西圏の会社では「誠意を見せるため手書き必須」とされることが多かったのです。

ボールペンで一字一句間違えないように書き、ミスをすれば最初から書き直し。

今思い返しても、一体何枚の履歴書を書いたのか、想像もつきません。

この手間を乗り越えるだけでも、かなりの精神力が必要でした。

また、説明会に参加した企業の数も正確には覚えていませんが、

1日2社回るのが当たり前だったので、おそらく100社近く足を運んだはずです。

移動の電車賃、履歴書用の証明写真代、スーツのクリーニング代――あらゆる出費がかさんでいきましたが、そんなことを気にする余裕もありませんでした。

理系やゼミつながりというルートへの羨望

周囲を見渡すと、理系学部の学生や、ゼミの教授推薦で内定を得る人も少なくありませんでした。

企業側としても、推薦枠ならある程度安心して採用できるため、ゼミや研究室経由の採用は「裏ルート」として機能していたのです。

そうしたコネクションを持たない文系学生にとって、完全な一般応募のみで戦うのは、想像以上に過酷でした。

「もし理系だったら」「もしゼミに強い繋がりがあったら」――そんな想像をしながら、少しだけ羨ましい気持ちになったのを今でも覚えています。

断られることへの耐性とタフさ

就職活動を通じて、私がもっとも身につけたものは、断られることへの耐性だったかもしれません。

面接で「結果は後日」と言われ、その後「お祈りメール(不採用通知)」が届く。

そんな繰り返しが、精神を確実に削っていきました。

人は、自分の努力や存在を否定されたように感じると、大きく心が揺れます。

特に、それまで「努力すれば報われる」と信じてきた学生時代を過ごしてきた者にとって、初めて直面する理不尽さでした。

しかし、ここで諦めるわけにはいきません。

何度断られても、ブルドーザーのように突き進む。

この感覚は、ある意味で営業活動に近いものがありました。

「どれだけ母数をこなすか」――成功確率が低いなら、アプローチ数を増やすしかない。

この単純で冷徹なロジックを、私は身をもって理解するようになりました。

バイト経験と社会への接触の重要性

思い返すと、アルバイト経験も就職活動に役立っていたと感じます。

さまざまな職場で、さまざまな世代の人たちと接することで、自然と社会人マナーや対応力が鍛えられていたのです。

今、若い世代にも伝えたいことは、

「早いうちから社会に触れておくといい」ということ。

大学の中だけで完結していると、どうしても視野が狭くなりがちです。

バイトでもインターンでも、社会との接点を持つことで、初めて気づけることがたくさんあります。

まとめ 〜あの夏を越えて〜

8月も終わりに近づく頃、蝉の声もだんだんと少なくなり、夏の終わりを感じさせる季節になりました。

それでも私の就職活動は、一進一退を続けていました。

祈られ、また応募し、また面接に行き、また祈られる――。

出口の見えないループに何度も心が折れそうになりながらも、それでも歩みを止めなかった自分を、今では少し誇りに思います。

戦争に巻き込まれた国に生まれることに比べれば、日本で、しかも大学まで進学できた私は、はるかに恵まれていた。

そう思えるようになったのは、もっとずっと後のことでした。

就職氷河期という厳しい時代を生き抜いた経験は、

私の中で今も確かに血肉となっています。

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