就職氷河期という時代背景の中で
1990年代後半から2000年代初頭、日本は深刻な経済停滞に直面していました。
バブル崩壊後、企業は新卒採用を大幅に絞り、大学生たちは「超氷河期」と呼ばれる厳しい就職市場に身を置くことを余儀なくされました。
私が就職活動をしていたのも、まさにその「就職氷河期」の真っただ中でした。
内定率は戦後最低水準とも言われ、どんなに努力しても結果が出ないことも珍しくありませんでした。
それでも私は、「これからはITの時代が来る」と信じ、ソフトウェア開発の道を志していました。
たとえ文系出身であっても、情熱さえあればこの世界で勝負できる。そう自分に言い聞かせ、数多くの企業にエントリーを続けていました。
運命の日、最終面談へ
幾度もの選考を乗り越え、ある日、ついに最終面談を迎えることになりました。
会場は、都会にある立派なビルの最上階。
緊張のあまり体中の神経が張り詰め、面談が終わる頃にはすっかり疲れ切っていました。
面談後、ビルの一角にあるオフィススペースで待つように指示されました。
そこには高級感のある革張りのソファが置かれており、私は社長椅子のようなそのソファに腰を下ろし、15分、20分と待つことになりました。
目の前に現れた「社長」
ふと周囲に目をやると、女性社員にエスコートされて年配の男性が現れました。
明らかにただ者ではない雰囲気——それが、この会社の社長でした。
社長は私の正面に座ると、何も話さず、1分ほどただじっと私を見つめました。
その無言の圧力に、私はたじろぎながらも背筋を伸ばして座り直しました。
やがて社長は、おもむろに口を開きました。
「あなた、ソフトウェア開発とはなんだかわかりますか?」
突然の問いに、私は驚きながらも必死で答えました。
「要求された仕様に基づき、プログラムを作成し、システムを構築して、顧客を満足させるサービスです」
しかし、社長は即座に叫びました。
「違う!!」
社長の熱弁と、心に火が灯った瞬間
社長は声を荒げながら続けました。
「ソフトウェアは“技術”だ。サービスではない!」
そこから20分以上、社長の熱弁が続きました。
ソフトウェア開発とは、顧客に媚びるのではなく、技術によって価値を生み出す仕事であり、技術者はプロフェッショナルでなければならない——。
社長の話を聞きながら、私は次第に目を輝かせていったのを覚えています。
その場では一言も口を挟む余地がありませんでした。
ただただ聞き入り、心の奥底から「これだ、自分はこういう仕事がしたかったんだ」と思えたのです。
無言の審判、そして「内定」の瞬間
社長は、唐突に話すのをやめ、また無言で私を見つめました。
少し俯き気味になったその目には、老眼鏡の上から私を試すような鋭い光が宿っていました。
やがて、社長は静かに言いました。
「君、合格だ。おめでとう、内定だ」
その声は、これまでの怒涛の口調とは打って変わって穏やかでした。
近くにいた女性社員に向かって、「決めた。内定だ。今からサインするから書類持ってきて」と指示を出しました。
長い戦いの終焉、ガッツポーズ
こうして、大学3回生から続けてきた長い就職活動に、ついに終止符が打たれたのです。
私は心の中でガクトの格付け番組のようにガッツポーズを取りました。
その後、社長がサインした内定通知や関連書類を受け取り、「返信は後日でいい」と言われ、オフィスを後にしました。
心の中では何度も何度も「よっしゃーーーー!」と叫びました。
内定先は株式会社大和コンピューター
内定をいただいたのは、従業員数約200名ほどの独立系IT企業、株式会社大和コンピューター。
初任給は22万円程度と、当時の相場から見ても特に高くはありませんでしたが、私はまったく気にしていませんでした。
なぜなら、「これからはITの時代になる」という確信があったからです。
当時はまだ、そんな思いは単なる学生の思い込みに過ぎませんでしたが、それでも自分の信じた道を進めることに、誇りと喜びを感じていました。
その後の未来と振り返り
後日談として、内定をもらった株式会社大和コンピューターは、数年後に株式上場を果たしました。
当時は予想もしていなかった未来です。
厳しい就職氷河期の中、文系出身ながらITエンジニアの道に進むことができたこと、
社長との運命的な出会いを経て、ソフトウェア開発の本質に目覚めることができたこと——。
あの日の経験が、今の私の礎になっています。
締めの一言
いま、就職活動で苦しんでいる人たちへ伝えたいことがあります。
どんなに時代が厳しくても、どんなに道が見えなくても、
「自分の信じた道をあきらめずに進むこと」。
その信念が、未来を切り開く力になると、私は信じています。
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